「“woke”って何?」

 9月初頭、イギリスの新首相に就任したリズ・トラスが対抗する姿勢を明言したことで、ある潮流に対する注目がにわかに高まった。
「woke(ウォーク)」。欧米を中心に猖獗を極めている政治思想運動の呼び名だ。日本には定訳がまだなく、新聞各紙は「意識高い系」を訳語に流用していたが、語感を掬っているとは評価しがたい。2017年にオックスフォード英語辞典に収録された新語であり、ニュアンスが刻々と変化しているため、しっくりした訳語を見つけるのが難しい。
「新語」と言ったが由来は古く1930年代に遡る。アメリカの黒人コミュニティで、自分たちが置かれている社会や政治の問題への「覚醒」を促すために使われ始めた「stay woke」が原型だ。黒人の権利が争われる局面で幾度もリバイバルし政治性を強めていき、様々な黒人音楽家によって歌い込まれた。
 現在の問題への橋渡しとして重要なのは、2008年のエリカ・バドゥ「マスター・ティーチャー」だ。「I stay woke」を呪文のように繰り返すこの曲によって同フレーズは黒人コミュニティを超えた一般性を得た。そしてやはりエリカのツイートをきっかけにハッシュタグと化し、ブラック・ライブズ・マターと絡んで、人種差別や社会不正に働きかけるアクティブなスローガンに変貌した。

www.youtube.com

 ネット・ミームとなった「woke」は2015年頃からミレニアル世代に爆発的に広まり、左派学生や運動家と結びついて、人種や民族、性的指向ジェンダーなど社会的マイノリティの地位向上を目指すアイデンティティ政治の標語、代名詞となった。運動は諸外国にも急速に波及していった。
 トラスの反wokeはつまり、アイデンティティ政治への拒否宣言である。英国はこれまでwokeの最先端を突っ走っていたのだ。
トランスジェンダー女性は女性ではない」と断言するトラスに「保守の反動、バックラッシュか」と即断しそうになるが、それは日本がwokeにまださほど冒されていない(侵入はしてきている)がゆえの一面的な見方である。
 トラスの首相就任に先立つ7月、英国で唯一子供にトランスジェンダー治療を行っていたタヴィストック・クリニックの閉鎖が発表された。「子供にとって安全ではない」との審査結果が出されたのだ。子供に対する性急な性別適合手術やホルモン療法は社会問題化しており、同病院は千件以上の医療過誤訴訟を起こされつつある。
 キャンセル・カルチャーも深刻化している。トランス差別発言をしたと糾弾、脅迫された『ハリー・ポッター』作者のJ・K・ローリングには殺害予告まで出た。リチャード・ドーキンスやスティーヴン・ピンカーといった科学者さえキャンセルされかけたポリティカルな吊し上げは魔女狩りの様相を呈しており、学問の自由、表現の自由の毀損が懸念されている。
 マイノリティの権利擁護という誰も反対できない「社会正義」を掲げカルト化し暴走するwokeに、トラスは否を突き付け、社会を守ると宣言したのである。
「woke」のニュアンスは刻々と変わっている。かつて誇り高かったこの言葉は今や揶揄や侮蔑に成り下がり、左派や活動家はそう呼ばれることを拒絶している。

(初出:『ビッグコミックオリジナル』2022年11.5号)