そしてみんな広告になった

 広告と批評について考えてみたい。休刊した雑誌『広告批評』の話ではない。広告と批評という、水と油が溶け合った話だ。
 東京五輪パラリンピック開幕を控えた今年7月、開会式の作曲担当に抜擢された小山田圭吾をめぐって大炎上が起こった。四半世紀ほど前に音楽雑誌などで語ったいじめ加害の“武勇伝”が問題視されたのだったが、小山田への糾弾が苛烈になる一方で、形ばかりの謝罪でお茶を濁した音楽ジャーナリズムに対する批判も噴出した。読者や関係者だけでなく、一部とはいえミュージシャンからも声が上がったレアケースだった。
 あげく、雑誌側がアーティストに無断で話を面白おかしく盛ったんじゃないかという疑惑を発端に(後に小山田は、記事に事実の歪曲があることを認めた)、ほとんどの音楽誌が、広告出稿をインタビューや新譜レビュー掲載の条件にしていること、つまりジャーナリズムや批評が、レコード会社から広告費をせしめるための手段に成り果てている実情が周知されてしまうこととなった。
 音楽誌が広告媒体と化していることは以前から知る人は知る事実だったが、小山田事件の火種となったインタビューの掲載誌が『ロッキング・オン・ジャパン』だったことが批判に拍車を掛けた。何といっても同誌は、70年代からこっち、ロック批評の代名詞である渋谷陽一が率いる雑誌なのだ。ロッキング・オンが追求してきたロック批評、ロック・ジャーナリズムって、広告とバーターで精神を切り売りして責任もろくに取らないってことだったのかよとみな呆れ果てた。
 批評が広告化しているのは音楽だけではない。文芸だって似たようなものだ。
 批判や論争が文芸媒体から姿を消しつつあると危惧されたのも昔の話、もはや文芸批評自体が消滅しそうな勢いだ。入れ替わりに、書評家が文芸誌の一角を占めるようになった。文芸批評家と書評家は似て非なる職能で、後者はおおむね作品の美点を読者に伝えることを職業的使命の第一と任じている。貶さず、褒める。
 書評はその成り立ちから広告的性格を備えたものではあるが、昨今は褒め書評しか存在を許されなくなっている。新聞雑誌の書評依頼に「批判的になっちゃうと思いますが」と応えて話が立ち消えにならなかった経験はないし、批判的書評を書いたらボツにされたという話もよく聞く。
 こうなると、出版という制度が広告的であれと抑圧している状況でしかなく、書評家・批評家が仕事を続けようと思うなら、褒めに徹するのが唯一の正解とならざるをえない。文芸誌に載る書評・批評はいまやネイティブアド*1と区別がつかない。
 僕はこの事態を「広告の内面化」と呼んでいるのだけれど、タチが悪いのは、広告を内面化した書評・批評が、ビジネスとしては広告ではないことだ。何よりギャラの桁が違う。見方によっては一種の搾取である。
 ロック批評が勃興したのは60年代後半。政治の季節だ。かつてなら文芸批評を志した者がロック批評に筆を移したとも言われたが、結局どちらの批評も広告になってしまった。広告化のプロセスがまるで違う点に興味をそそられないこともないが、どっちにしろ広告は広告である。

 

※初出:『ビッグコミックオリジナル』2021年12月20日

ビッグコミックオリジナル 2021年24号(2021年12月3日発売) [雑誌]

 

※※追記。せっかくなので新刊情報を。このコラムの内容とも少し関連したところあり。

 

*1:一般記事を装った広告