80年代アイドル歌謡に結実したニューミュージックという運動――松本隆と松田聖子が塗り替えたもの(『レコード・コレクターズ』2014年 11月号)

 9月号「70年代アイドル特集」で湯浅学は、「70年代アイドルの集大成」であったピンク・レディーの独走が極限に達した79年、熱狂は突如終焉したと書いていた。そのあたりを復習って本題に繋げよう。
 キャンディーズは77年7月に解散を宣言し78年4月に解散した。山口百恵は79年10月に三浦友和との交際を発表、80年3月に婚約発表と同時に引退宣言をし同年10月に引退した。ピンク・レディーは80年9月に解散を発表し81年3月に解散した。
 70年代後半を主導した大物が立て続けに抜け落ちたことで、80年代に入る直前、アイドル・シーンはエアポケットに陥る。いわゆる79年組の異様なまでの不作振りは暗黒のようですらあった。
 高見知佳マーガレット・ポー能瀬慶子倉田まり子、ザ・チェリーズ、フィーバー、川島なお美、BIBI、井上望、朝比奈マリア、さとうあき子、大滝裕子堀川まゆみ……
 川島なお美が唯一生き延びた出世頭ということになってしまいそうなあたりにも深い趣きがあるが、実は大滝裕子も成功を収めている。アイドルからリタイアした後、85年にコーラスグループAMAZONSを結成し、現在に至るまで、矢沢永吉スガシカオ郷ひろみ平井堅ら数々のツアーやレコーディングなどで活躍している。
 大滝は大橋純子に影響を受けてコーラスの道に進んだということだが、その決意には、当時の状況の反映があったと推測される。79年にはこんな人たちもデビューしていたからだ。
 越美晴、杏里、竹内まりや桑江知子石川優子、横山みゆき、久保田早紀沢田聖子、宮本典子。
 前年には渡辺真知子水越けいこがデビューしている。80年組になってしまうが松原みきも79年11月にデビューしている。クリス松村が『「誰にも書けない」アイドル論』で指摘しているとおり、あの頃はこうした人たちもアイドル扱いされていた。ニューミュージック・ブームの影響で、“シンガーソングライターやシンガーがアイドル化する”、あるいはその逆の“歌謡曲の歌手がシンガーソングライター風を装う”という風潮がこの時期出てきていたのだ。
 源流は太田裕美だ。ピアノを弾き作曲もし、他の歌手への楽曲提供さえも行っていたのに、自身の歌うシングルは一貫して職業作家による作品。太田は、歌謡曲とニューミュージックがハイブリッド化していく端緒で生まれた、新しいタイプの、あえていうがアイドルだったのである。
 太田裕美は、74年のデビューから78年までの4年間、いくつか例外はあるものの、シングルもアルバムも、基本的には、松本隆筒美京平萩田光雄のチームによって手掛けられていた。はっぴいえんど解散後、歌謡界に「単身赴任」(『松本隆対談集 KAZEMACHI CAFE』)した松本は、やがてニューミュージック系の人材を歌謡曲へ引っ張り込んでいくようになる。ニューミュージック勢によるアイドルへの楽曲提供は70年代の半ばから始まってはいたが、多くはまだ野合といった段階を出ていなかった。
 両者の融合がアイドル歌謡の新しいかたちに昇華するのは、松田聖子の登場以後のことだ。

百恵クローンという70年代の残滓

 ディケイドの区切りは便宜的であることが多いけれど、アイドル歌謡に関しては、80年代と70年代以前は本質的にまったく別物である。そして90年代に入る手前でほぼ完全にブームは終わる。
 松田聖子の出現によりアイドル・シーンは一気に塗り変わったわけだが、聖子のデビューは80年4月で、80年組の区分に入って半年ほど経ってからのことであり、それまではまだ暗黒の79年が引き続いていた。聖子以前の80年組はこんな並びだ。
 壺井むつ美、比企理恵、沢田富美子、佐藤恵利、中山圭子岩崎良美……
 良美を例外として屍累々である。70年代と80年代の対比を見るには佐藤恵利に注目するのがいい。佐藤は80年1月にデビューした百恵のクローンである。79年からサンデーズのメンバーとして活動する一方で、映画で百恵の代役を務めていた、文字通りの影武者だった。デビュー曲「ラブ・スケッチ」はあからさまにポスト百恵を狙ったものだったが鳴かず飛ばずで、シングルを3枚出したのみで佐藤は脱落した。末期には「もう私は“山口百恵”じゃない」(『婦人生活』80年11月号)という悲痛な記事まで出る始末だった。
 佐藤の後にも、浜田朱里三田寛子、中野美紀、三原順子など百恵の後釜を狙った新人のデビューは相次いだ。
 柳の下の泥鰌を攫いにいくのは、送り手側としてはまあ当然の手ではあって、キャンディーズには解散宣言以前からフォロワーが出ていたし、宣言後は、渡辺プロが自ら送り出したトライアングル、フィーバーを筆頭に、ギャル(黒木真由美在籍)、ザ・チェリーズ、ミルク(荻野目洋子在籍)、ラジオっ娘、ソフトクリームなどなど雨後の竹の子の様相だった。
 中森明菜にも百恵フォロワー的であることが見込まれていたが、少し事情が入り組んでいる。叙情的な1stシングル「スローモーション」と、ツッパリ少女風の2ndシングル「少女A」が交錯していたため、デビュー時の明菜はイメージが混濁していた。デビュー曲が決まる前に作られた1stアルバム『プロローグ〈序幕〉』はさらに混乱した内容で、スタッフも目指すべき方向がわかっていなかったことがうかがわれるが、「少女A」がヒットしたためこの路線の色が強まる。作詞の売野雅勇山口百恵の「プレイバックPart2」を「少女A」の参考にしたという。明菜は百恵を尊敬してはいたけれど、「スローモーション」や3rdシングル「セカンド・ラブ」のような方向を好んでおり、「少女A」は嫌いと明言していて、最初は歌うことを拒絶していたほどだった。
 それでも明菜は百恵に似ていた。百恵クローンたちとは一線を画した、唯一百恵を継承しうる者だったし、一時は継承しえていたのではないかと思う。“百恵vs聖子”という対比が横滑りした“明菜vs聖子”という比較がよく見られたが、明菜に70年代的な部分があったとすれば、虚構性の薄さ、実存性の強さだろうか。「横須賀ストーリー」に相当する曲を持てなかった明菜の不幸というのはあるように思うが、80年代にそんな歌謡曲が果たして成立しえたか。
 では百恵クローン以外はどうだったかと目を移してみれば、映画監督でドメスティック歌謡マニアの金子修介が『失われた歌謡曲』でいうように「聖子クローン」ばかり、出る新人出る新人、もうみんな聖子カットというありさまだった。
 80年代アイドル・ブームというのは煎じ詰めれば、聖子および聖子クローンによって、百恵クローンすなわち70年代歌謡の残滓が駆逐され葬られていく過程だったのだといっても、あながち暴論ではないだろう。

すべては聖子で塗り変わった

 デビューの時点から徒花感を漂わせていた一連の79年組アイドルに続けて松田聖子を聴くと、曇天が一転晴れわたるようで、たしかにここですべてが変わったのだと実感できるに違いない。
 聖子の音楽性というと松本隆が関わってからに傾きがちだが、「裸足の季節」や「青い珊瑚礁」の突き抜けた開放感を、どん詰まりの70年末を引きずる状況下で描き出した点で、三浦徳子小田裕一郎の初期コンビはやはり特筆されるべきである。
 松本は「裸足の季節」をCMで耳にして、「「この人の詞は、ぼくが書くべきだ」と直感した」と作詞活動30周年記念『風街図鑑[風編]』の自作解説で回想している。小田は聖子の声にブレンダ・リーに似た質を見ていたそうだが、ハイトーンを目一杯に生かした小田のメロディがなければ、松本が耳を留めることもなかっただろう。
 4thシングル「チェリーブラッサム」から作曲が財津和夫に変わり、6th「白いパラソル」で松本が作詞に迎えられる。CBSソニーのディレクター若松宗雄に依頼され、直感どおり聖子に詞を書くことになったわけだが、最初に書いたのは3rdアルバム『シルエット』に収録の「白い貝のブローチ」で、「白いパラソル」は2曲目だった。次のシングル「風立ちぬ」に松本は大瀧詠一を召還、続くアルバム『風立ちぬ』ですべての作詞を手掛けることになり、実質的にプロデューサーの立ち位置となった松本は、A面の作編曲を大滝詠一に、B面を鈴木茂に任せた。以後、呉田軽穂松任谷由実)、原田真二来生たかお細野晴臣南佳孝佐野元春など、はっぴいえんどティン・パン・アレーの人脈を中心に、ニューミュージック系人材を次々に引き込んでいき、松本隆松田聖子プロジェクトは一大実験場の様相を呈していった。実験といっても、そのすべてが歌謡曲としてヒットを記録したことは周知のとおりだ。
 松本本人も書き記しているが、聖子との試みは、かつての太田裕美とのコラボレーションの延長線上に位置付けられる。松本と聖子のコラボは、84年末の10thアルバム『Windy Shadow』まで続いた。

もう一人の変革者・渡辺有三

 一方で、太田裕美のコラボで誕生した松本隆筒美京平のコンビは、作詞の覇権が阿久悠から松本に移るのに連れて、80年代歌謡を象徴する作家チームとなっていく。80年代の松本のコラボとして特記するべきは、聖子以外では、薬師丸ひろ子斉藤由貴となるが、斉藤の「卒業」「初戀」「情熱」(85年)の“漢字2文字3部作”はこのコンビにより手掛けられたものだ。「卒業」については筒美が珍しく「二人でやったのだとあれも好きなんだよ。斉藤由貴さんの「卒業」」と漏らしている(『KAZEMACHI CAFE』)。
 薬師丸が歌うようになったのは、81年の主演作『セーラー服と機関銃』の主題歌がきっかけだった。松本は、2ndシングル「探偵物語」(83年)から6thシングル「天に星、地に花」(85年)まで手掛けた。86年の3rdアルバム『花図鑑』は松本のプロデュース作で、むろん全詞松本である。
 薬師丸の歌が当たった角川は、角川三人娘のもう二人、原田知世と渡辺典子も歌手デビューさせた。今回集計されたアンケートで、原田の「時をかける少女」(83年)が1位というのを見て正直意外に思ったのだが、ユーミンの世界を、いかにも少女な危うい歌唱が具現化しているこの曲は、ハイブリット化した歌謡曲のある面での到達点といえばいえるかもしれない。ユーミン呉田軽穂でなく本名でクレジットしていて本気が感じられる。
 80年代アイドル歌謡の変革を推し進めた要人はもちろん多数にのぼるけれど、もう一人だけ挙げるなら、キャニオンレコード(現ポニーキャニオン)の渡辺有三になるのではないかと思う。慶大在学中に加山雄三&ザ・ランチャーズに加入しベースを弾いていた渡辺は、加山から独立したバンドとしてシングル「真冬の帰り道」もリリースしたが、卒業後はキャニオンに入社した。今年1月に亡くなった際「多数のアイドルを輩出」と報じられたが、70年代には、NSPやChar、中島みゆき山崎ハコなどニューミュージック系のミュージシャンを手掛けており、歌謡曲とニューミュージックを橋渡ししたディレクターだった。
 特に重要と思われるのは、まだ楽曲提供などほとんどしていなかった尾崎亜美に着目し、金井夕子と組み合わせたことだ。杏里の「オリビアを聴きながら」(78年)を尾崎に書かせたのも渡辺である。工藤静香中島みゆきをぶつけ「MUGO・ん…色っぽい」(88年)を歌わせたのも渡辺だ。
 金井夕子のデビュー曲「パステル ラヴ」のシティポップ然とした仕上がりは、78年時点のアイドル歌謡としては異例である。制作の面では松田聖子の先駆に位置付けることもできそうで、尾崎に次いで、松本隆筒美京平のコンビ、松任谷正隆ティン・パン・アレーYMOといった人たちが投入されていった。これだけいろいろ試みながらどうも歯車が噛み合わず82年には活動を休止してしまうのだが、渡辺有三尾崎亜美のタッグは80年代に、岩崎良美岡田有希子堀ちえみなどへ展開していったわけで、その起点の存在として金井夕子は銘記されていいと思う(売れなかったけど)。

AKB48へ受け継がれた本当の要点

 金子修介の見立てでは、河合奈保子、柏原よしえ、伊藤つかさ早見優堀ちえみ石川秀美小泉今日子三田寛子武田久美子などが聖子クローンであったとされている。「みんなそれぞれに個別の魅力」はあるが「巨視的に見るとですね、やっぱりクローンなんですね」。三田寛子なんて、百恵クローンにして聖子クローンでもあったわけだ。松本伊代も巨視的には聖子クローンに含まれるはずだが挙げられていないのは、独特な声と歌唱が作詞に糸井重里をおびき寄せ、3rdシングル「TVの国からキラキラ」で早々に唯一無二の個性を確立していたからか(それも聖子カットのままで)。
 84年の菊池桃子岡田有希子あたりまで聖子シンドロームは続く。おニャン子クラブの登場で一応の区切りがつくのだけれど、その後もブームが終焉を迎える90年前後まで、聖子カットでデビューする新人アイドルはぽつぽつとながら途切れなかった。
 なかでも究極の聖子クローンは、83年デビューの高橋美枝だ。何しろ聖子と同じレコード会社で、おまけにディレクターまで聖子担当と同一人物(前出の若松宗雄)だったのである。作詞にも松本隆を迎え、万全の構えで送り出されたのだが、しかし売れなかった。デビューシングルB面の「ピンクの鞄(トランク)」は、細野晴臣作曲、大村雅朗編曲で、まさに聖子!という埋もれた名曲である。
 聖子クローンといっても高橋美枝ほど徹底した例は他になく、所詮はうわべだけの話だったから、みなそれぞれに個性を模索し出すことになる。82年組では、早々に髪を切り(刈り上げ!)、新人類の絶賛を浴びてサブカル・アイコン化していった小泉今日子がやはり重要ということになろう。秋元康と組んだメタアイドル歌謡なんてったってアイドル」(85年11月)が、その数ヶ月前にデビューしたおニャン子クラブとともに80年代アイドルの変節を招いたことでもコイズミは重要人物だが、このあたりはさんざん語られてきたことなので割愛してもいいだろう。
 現在に通じる視点でおニャン子を見たとき、注意するべきなのは、シングル初動の勢いのみでチャートを攪乱していたという事実ではないかと思われる。グループアイドルの原型となったということより、あるいは要点かもしれない。
 おニャン子クラブは、関連グループやソロを含めてリリースするシングルが次々にオリコン1位を獲得した。だが、個々のレコードの売上は実は意外と少ない。クリス松村が前掲書で指摘しているのだけれど、86年の週間シングルチャート1位は、全52週のうち実に36週がおニャン子関連で占められていたが、年間チャートとなると、河合その子「青いスタスィオン」の10位が最高位なのだ。売上枚数は34万枚。初週で1位を取り、2、3週10位内に留まってフェイドアウトというのがおニャン子シングルのパターンだったのだが、ともかく1位にはなるから、市場を独占しているようなイメージが生まれていたのである。
 AKB48が採ることになる戦略に非常によく似ている。初動で1位を獲得すればメディアで晒される機会が増え、プレゼンスが増せばそれが売上として返ってくる……。いわゆるAKB商法の本質というのは、このフィードバックを人為的に起こすために初動にドーピングすることだったといえるが、おニャン子のチャート・アクションとその効果を身をもって経験した秋元康は、方法として練り上げていったのだろう。
 おニャン子クラブがアイドル・シーンを引っかき回すなか、同じ85年組では、南野陽子中山美穂斉藤由貴本田美奈子が健闘していた。87年組の風間三姉妹浅香唯大西結花中村由真)や酒井法子、88年組のWinkといった巻き返しもあったものの、おニャン子解散とともに祭りの終わりを迎えた感は拭えず、89年にデビューした乙女塾出身のCoCo、ribbon、90年デビューの東京パフォーマンスドールあたりを境に80年代アイドル・ブームは終息する。パードルはテレビからライブハウスなどに主戦場を移し地下アイドルの先駆となるのだが、90年代に地下で先鋭化したアイドルヲタクとその末裔が、モーニング娘。からハロー!プロジェクト、そしてAKB48ブレイクの基盤を培っていくことになるのである。